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Doctors' File 〜医師語一会〜

2017.01.22

【泰川恵吾 先生】在宅療養生活や在宅看取りをサポートする体制の構築に力を注ぐ

泰川恵吾 先生

救急救命センターの最前線の医師から、在宅医療を推進する診療所の医師へと転身し、宮古島で 「ドクターゴン診療所」を開設した泰川恵吾先生。「今後は、急速な高齢化が進行する都市部こそ、在宅医療が重要になる」と語ります。ご自身の体験を踏まえて、医学部の受験勉強の心構えや、これからの医療を担う若者たちに考えておいてほしいことなどをお伺いしました。


幼い頃の夢は宇宙飛行士になること

―先生が医師をめざしたきっかけから教えてください。

泰川 恵吾 先生

泰川 小学校に入学した頃、アームストロング船長がアポロ11号で月面着陸に成功した映像を見て、宇宙飛行士になりたいという夢が生まれました。その思いは続き、高校3年生の2学期になって、将来の進路を決める際にも、高校を卒業したら、まず航空自衛隊に入隊して、航空機のパイロットを経験した上で、宇宙飛行士をめざそうと考えていました。
 けれども、両親から猛反対されました。医師だった父が、私を説得するための資料として調べてきたのが、宇宙飛行士のリストです。それを見ると、全員ドクターの肩書を持っています。当然、このドクターは博士号であり、医師を意味していたわけではなかったのですが、当時の私はそれに思い至らず、父の目論見通り、「宇宙飛行士になるためには、医師免許を取得した方が有利」と単純に考えてしまったのです。完全にだまされてしまいました(笑)。

解法パターンの暗記に徹する勉強方法が効果的

―小中高時代の成績はいかがだったのですか。

泰川 私は返還前の宮古島で生まれました。小学校入学直後に、父がイギリス・グラスゴー大学で公衆衛生学を教えることになったため、エジンバラに引っ越しました。エジンバラには日本人学校がなく、なかなか私に適した学校が見つかりません。そのため、父が慶應義塾大学医学部助教授になったことに伴って、小学校3年生で東京に移り住むまで、まともに学校に通っていませんでした。いまだに九九がよく分かっていないほどです(笑)。
 
 しかも、遊んでばかりで全然勉強しなかったので、中学生のときには全科目オール1の通知表をもらったこともあります。入学した都立の高校も偏差値は高くなく、荒れていました。進路指導の面談で医学部志望を伝えたところ、「本校では医学部受験の前例がないから、指導できない。自力で頑張ってくれ」といわれてしまいました(笑)。

―そんな状況で医学部合格を果たせたのは、どのような勉強方法が功を奏したのでしょうか。

泰川 私にとって大きかったのは、中学校3年生のときの家庭教師との出会いです。それまでの私は、問題文を読んで、自分の力で解き方を考えようとしていました。近年、「考える力」の重要性が強調されていますが、まったく知識がない状態で考えようとしてもうまくいくはずがありません。家庭教師から「そんな勉強方法は入試では通用しない。

 重要事項や解法のパターンは全部覚えなさい」と諭され、「簡単に覚えられない」と反発する私に、「100回書けば必ず覚えられる」と指導されました。実際に100回書くと、私がほしがっていたキャラクターのキーホルダーなどがプレゼントされるため、それが楽しみで取り組むようになりました。全科目オール1というゼロからのスタートですから、偏差値は急上昇し、高校では常に上位の成績を収めることができました。とはいえ、いわゆる進学校ではありませんから、その程度の成績では現役時に医学部に合格することはできませんでした。

―高校卒業後、1年間、予備校に通われたのですね。

泰川 医学部専門の予備校に通いました。学力別クラス編成になっており、私は下から2番目のクラスでした。普通は少しでも上のクラスに行こうと思うものでしょうが、私はあえてそのクラスに留まることを選択しました。周囲が医学部を断念して退校していくことが多いため、マンツーマンに近い授業が期待できたからです。
 
 当時の私は、中学生時代の家庭教師に指導された「反復練習」の大切さが身に染みついていました。予備校に求めていたのは、医学部でよく出題される問題のパターンであり、それをすべて反復して暗記する勉強方法を1年間貫こうと決意していたのです。どんな難問にもパターンがあり、そこから逸脱した出題はほとんど見られません。相当な根性と覚悟が要求されますが、そのパターンを暗記する勉強に徹したことで、1年後、2つの医学部に合格し杏林大学医学部に入学しました。

救急救命センターの最前線で生まれた問題意識

―卒業後のご経歴を紹介してください。

泰川 幼い頃からの夢だった宇宙飛行士に少しでも近づくために、卒業したらアメリカで働きたいと考えていました。実際、英語の勉強を続け、EOFMG(外国人医師がアメリカで医療を行うための資格試験)の受験準備を進めていました。けれども、亡くなった父の代わりに家族の生活を支える責任があり、いったん日本で医師になり、ある程度の経済的余裕ができてから、渡米しようと決めました。救命救急に興味があり、平成元年に東京女子医科大学に救命救急センターが開設されることを知ったため、同大学第二外科に入局し、救命班に所属しました。

―救急救命の仕事に携わられたのですか。

泰川 はい。救急救命医は多忙なので、あまり人気がなく、その分、充実した経験を積むことができ、30歳頃からはICU長、さらに救急部長を務めました。幸い、『ER緊急救命室』『救命病棟24時』などのテレビドラマの影響もあって、その後、たくさんの医師が救急救命の現場に入ってくるようになりました。後輩が育ったこと、および宇宙飛行士採用試験にも挑戦し続けていたのですが、ずっと不合格で断念しようと思ったことから、生まれ故郷の宮古島に帰ることにしました。そして、幼い頃からの趣味だったダイビングのショップと、「ドクターゴン診療所」を同時にオープンしました。

今後、都市部でこそ在宅医療の重要性が高まる

―どのような診療所をめざしているのですか。

泰川 恵吾 先生の手術写真

泰川 救急救命の最前線に携わる中で、私にはある問題意識が生まれていました。それは、本来、緊急を要する重症患者のためのものであるはずの救急救命センターのベッドが、慢性疾患の高齢者で占められていたことです。そのために新しい重症患者の受け入れを断らざるを得ない事態が発生しています。救急救命医療と「看取る医療」をきちんとコントロールする必要性を感じたのです。そこで、「ドクターゴン診療所」では、在宅療養生活や、在宅看取りをサポートする体制の構築に力を注いでいます。公共交通機関に恵まれない宮古島全域で往診を行っていますし、橋がかかっていない島への往診には高速船やジェットスキーを活用しています。

―鎌倉でも診療所を開院されていますが、どのような思いからでしょうか。

泰川 宮古島ではこの10年間、高齢化率はほとんど変化していません。一方で、都市部では急速な高齢化が深刻になっており、そうした都市部にこそ在宅医療を提供することが重要になると考えたのです。なぜなら、都市部では公共交通機関は発達していますが、歩行が困難になれば、公共交通機関を利用できません。しかも、地域コミュニティが確立している宮古島と違い、都市部では人間関係が希薄で、孤独死の危険性もあります。在宅医療へのニーズが高まることは確実なのです。
 鎌倉に開院したのは、もう1つ理由があります。それは私が医師を辞めた後も継続して対応できるように後継者を育成することです。田舎でお洒落なお店が少ない宮古島だけでは、若い優秀な専門スタッフを集めるのは難しい面があります。そこで現在、鎌倉に6名、宮古島に1名のスタッフを配置して、ローテーションで入れ替えて、カバーし合える体制にしています。

―今後の目標をお聞かせください。

泰川 いたずらに規模を拡大するよりも、現在のスケールのままでいいので、より先進的で充実した医療が提供できるようにしていきたいと考えています。たとえば、すでに基本的な手術や検査は在宅で行える体制を整えています。安全に行えるのなら、病院の施設で行う必要はなく、医療費の軽減にもつながります。もう1つ心がけているのは、私は救急救命の技術を持っているわけですが、それをいざというときに使えるように訓練を積みつつも、必ずしも高齢者に用いるのがいいとは限らないということです。救急救命の技術は、いわば鋭い日本刀のようなもので、鞘に納めたままで抜かない勇気が必要になることもあるのです。

―最後に小中高生を持つ保護者に向けて、アドバイスをお願いします。

ジェットスキー ▲離島には得意のジェットスキーで往診に

泰川 優秀な保護者ほど、自分の過去を振り返ったときに、現実以上に自分の能力や経験を美化しがちな気がします(笑)。「私たちのDNAを受け継いでいるのだから、それほど頑張らなくても勉強はできるはずだ」なんてことを、子どもにいうのは絶対に避けてほしいですね。相当な努力をしなければ、医学部に合格することはできません。その代わり、医師になれば、やりがいのある世界が待っています。そんな医師としての将来像に夢を抱かせるように心がけることが、子どもが努力を続けるモチベーションになると思います。

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