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Doctors' File 〜医師語一会〜

2017.01.19

【菅野武 先生】病を治すだけでなく、患者の人生を支える医師でありたい

東北大学菅野武 先生

2011年3月11日に発生した東日本大震災での医療活動が世界に配信され、同年4月に発表された米国タイム誌の2011年度の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた菅野武医師─。医師を志したきっかけ、被災地での医療活動から見えてきた医師のあり方、これから医師を目指す若者に向けての提言などを、日経BP社医療局長の千田敏之が聞いた。


千田 菅野先生は、仙台市内にある中高一貫校で学ばれたそうですが、中学・高校時代は、どのように過ごしましたか。

管野 中学・高校でクラブ活動は吹奏楽部に籍を置き、トロンボーンを担当していました。音楽が好きで、一時はクラブ活動をするために学校に通っていると思うぐらいに身を入れていたほどです。
 勉強は現代文と化学が好きでした。現代文については、本を読むのが好きで、作文も得意だった。化学は、化学記号や物質の変化など、すべてが明確に理解できる。自分の性に合っていたと思います。
 医師になって思うのは、ある事象を扱う際に、その事象から問題点を抽出し、結論に向けてまとめていくために、国語力が大切だということです。それだけに、文章を読み、考えをまとめて、それを言葉に落としこんで表現する力は、若いときから訓練すべきだと思います。

祖母の闘病と別れが医師を目指すきっかけに

千田 医学部に進もうと考えたきっかけをお話しください。


管野 大学受験の勉強を始めた高校3年生のときです。それまでは漫然とですが、化学系の道に進もうと考えていました。
 医学部を受験しようと思ったきっかけは、祖母の死でした。両親が共働きで、子どものころは主に祖母と一緒に過ごす時間が長かったんです。それだけに、私はおばあちゃん子だった。その祖母が私が10歳のころに認知症となり、一緒に暮らすことができなくなって特別養護老人ホームに入りました。それから、祖母と少し疎遠になってしまったという後悔があります。
 病が進行して寝たきりになり、お見舞いに訪ねると、点滴や酸素吸入などの管につながれている祖母の姿を見ました。すると、昔やさしかった祖母の思い出が蘇ってきて、自分の意思とは違うところで生かされているようで、「祖母は幸せなのか」と思ったのです。
「ベッドに横になりながら過ごしていることも、祖母が望んだことなのだろうか。それを自分は祖母に聞くこともなかった」と考えました。


千田 現在は、介護保険制度ができて、訪問看護や訪問介護、通所介護、グループホームといった様々な要介護者向けのサービスがありますが、当時はそのようなサービスがない時期でした。認知症の方を受け入れる施設も少なかったと思います。


管野 インフォームドコンセント(十分な説明と同意)に関しても、それほど進んでいない時期でしたが、主治医の先生はとても丁寧な人で、やれるだけのことはやりましょうと語っていました。


千田 祖母の姿をご覧になって、自分が医師になって、患者の意思が反映される医療に関わろうと考えられたのですか。


菅野 そうですね。でも、そのときは医師になって何かを変えようとまでは思っていませんでした。それよりも、治療法や自分の死にゆく姿についてもっと向き合うことはできないのだろうかという疑問の方が大きかった。疑問を解決するために、医師の側に入ってみようと考えました。


千田 医師を志すきっかけに、肉親の死がきっかけとなる人が少なくないと思いますが、ほとんどは病気を治したいと考えて医学部を目指します。菅野先生のように、高校生のときから、医師と患者の関係に踏み込んでまで考える人はまれではないでしょうか。


菅野 人の命を助けたいという思いは、医師の志としては当然のことです。しかし、最近の医学は、患者を支えて慰めるというフィールドにも関わるようになっていると感じています。東日本大震災が、それを世間に対しても知らしめるきっかけになったと思います。

消化器内科医としてへき地で可能性を見いだす

千田 高校3年で医学部進学を決意されたとのことですが、他の受験生に比べてスタートが遅かったのでは。

菅野 進路指導の先生にも怒られました。「いまさら」と(笑)。医学部受験には、平均した点数を求められます。化学は得意だったと言いましたが、もう一つの理科系の受験科目の物理は決して成績が良くなかったので、相当厳しかったのは事実です。
 目標がいったん定まると、あとは、やらなければいけないことに時間を割くスケジュールを組むことで、成績は少しずつ伸びていきました。しかし現役で合格することはかなわず、1年間浪人して医学部に入学することができました。

千田 大学に入学した際には、専門は何を目指していたのですか。

菅野 卒業するまでは消化器外科に進みたかったのです。胃、大腸、そして肝臓、膵臓、胆嚢など、吸収して排泄するまでの器官に興味がありました。外科は、やはり治すというイメージがあったのです。
同時に、先生や先輩と接していると、外科系の人は親分肌で統率力がある人が多かったこともあります。格好良かった。
 現在、私の専門は消化器内科です。内科にシフトした理由は二つあります。一つは、消化器外科は医師一人ではできないことです。外科は、パートナーや手術の設備がないと治療ができません。
 もう一つは、自分がこれから先、自治医科大学の卒業後は地域医療に携わることが分かっていたことです。一人で何ができるだろうと考え、内視鏡で見つけて、患部を取り除き、その後も診てあげられるのであれば、内科医ができる治療の可能性は広いし、へき地に赴任しても自分なりに重要な仕事ができると思い、消化器内科を選択しました。

千田 自治医科大学の学生を対象とする修学資金貸与制度は、出身の自治体に戻って9年間、地域医療に携われば、返還が免除されます。生涯を通じて地域医療に携わろうという思いを持って入学する学生が多いのですか。

菅野 入学したときは、必ずしも皆が一生をかけて地域医療に関わる決意は持っていないと思います。しかしこれからは、地域医療が求められる時代になるでしょう。地域医療に携わるのであれば、その中で自己実現をして、それを自分のキャリアパスとして生かしていくべきだと思っています。

震災でよみがえった明日への希望

千田 先ほど、先生は東日本大震災が、医学のこれからのあり方を知らしめるきっかけになったと話されました。
 3月11日、勤務していた宮城県南三陸町の公立志津川病院で被災し、大津波に襲われて取り残された230人と救助を待ち、3日後に最後の患者の搬送を見届けるまで付き添われました。直後にご長男が生まれ、その後も被災地に戻って、医療活動を続けられました。
 こうした体験を『寄り添い支える』(河北新報社刊)のタイトルで書籍にまとめられました。その書籍の中で「時に癒し、しばし支え、常に慰める」という16世紀フランスの外科医の言葉を紹介されています。菅野先生が医者を目指されたきっかけと、震災で浮かび上がったことは、基本的に同じですね。


菅野 本質は同じだと思います。震災では、人の命を救うべき医者が何もできずに無力感を味わいました。震災で知ったことは、自分ができないことを理解した上で、他者とどう関わっていくのかということです。
 病から助けるだけではなく、そのあとの患者の人生をどう支えていくか。それこそが医療の重要なテーマとして出てきました。震災で無力感を突きつけられたことで、あらためてその問題への視野を広げざるを得なくなりました。

千田 震災直後、当時日経メディカルの編集長だった私も、三陸海岸の被災地を取材しましたが、医療の現場では、「急性期医療ばかり見ていたけれど、慢性期医療や在宅医療の大切さにあらためて気づかされた」とか、「これまで病気だけを診てきたが、治療後の介護体制も重要だ」といった声を聞きました。


菅野 これだけ助けたとか、何でも治しましょうということも、医療の一つですが、同時に病気と一緒に患者も見ないといけません。
 実際に被災地で私がしてきたことは、医療のマネジメントという、本来の医療行為とは異なることでした。臨床医師として、地元の人と顔をつなげて友達を増やしてきたことが、被災地の医療現場で最終的には生きたのです。
 人間一人ひとりができることはいろいろありますが、同時に限界もある。できないことを補えるような仕組みづくりをすれば、医療の現場も変わっていくと感じています。


千田 被災地の医療に携わる中で、医療とは何か、医師はどうあるべきかを見つめ直した医師が多かったと聞きました。菅野先生が話すように、医師だけでは医療は成り立たない。看護師さんもいるし、薬剤師さんもいる、あるいは介護士さんもいる。こうした人たちのつながりの重要性が改めて認識されたと感じています。

選ぶことより、そこから何をするのか

菅野 被災地では、自分の専門性とは関係なく、何から何まで診なければなりませんでした。これからの日本では、専門性を持ちながら身体全体を診ることのできる総合診療医の存在が重要になってくると思います。そのためには全身の一般的な疾患の勉強をしなければならないと感じました。


千田 少子高齢化で、総合診療医が求められています。専門医制度を変えようとする動きもあります。広く総合的に診療ができる専門家を育てるためのカリキュラムづくりも行われようとしています。

菅野 専門医と総合診療医は相反するものではなく、お互いが補完し合える仕組みが必要です。私も、消化器が得意な総合診療医を目指したいと考えています。
 相反するものではないという意味では、研究医と臨床医についても同じです。今、私は地域の公立病院に内科長として勤めながら、東北大学大学院で学ぶ学生でもあります。大学だから医療の現場を知ることができないことはありませんし、田舎にいるから最新の医学研究に触れられないこともありません。
 ある時点で一つを選んだらそれで終わりではなく、そこから何をするのかが大事だということを、今の高校生には伝えたいですね。どちらかを選んでも両方やれるときもあります。

千田 医師を目指す子どもたちが増えています。このところの医学部の人気についてはどう思われますか。

菅野 医学部に人気があることは、競争を経て優秀な人が入り良いことだと思います。ただし、受験勉強よりも入学してからの勉強の方がずっと大変だということは、知っていてほしいですね。
 目の前の患者さんのために学び続けるという姿勢は持ち続けなければなりません。だから、学ぶことが嫌いな人は医師に向いていないと思うのです。そういう意味でも、ある程度競争がないと駄目だと思います。そして医学部を目指す人は、ある程度の覚悟と志は持ってほしいと思います。

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