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Doctors' File 〜医師語一会〜

2017.03.08

【松本尚 先生】医師の世界は厳しい 十分な覚悟を持っているか?

松本尚 先生

事故現場や災害など救急医療が必要な場所へいち早く駆けつけ、患者に医療を提供するドクターヘリ。それに乗り込むフライトドクターの日本におけるパイオニアが、日本医科大学千葉北総病院救命救急センター長の松本尚さんだ。なぜ医学部を志望し、救急医療に身を投じるようになったのか。ご自身の歩んでこられた道を振り返っていただくと同時に、医学部を目指す受験生へのエールもいただいた。


医学部進学は、第二の選択肢だった

ー医師になろうと思ったきっかけを教えてください。

松本 幼稚園から高校まで、ずっと金沢大学の附属学校でした。中学校まではそのまま進めましたが、附属高校へは受験を経なければ進学できません。ただ、中学3年間の成績が重視されるため、中学校時代も勉強だけはしっかりやっていました。ですから中学校時代はただ、附属高校に進むことだけが目標でした。

 附属高校に進学すると、当時の全国各地の進学校がそうであるように、東大に何人合格するかが価値基準になっていました。したがって附属高校のときは、東大進学だけが唯一の目標で、進学する学部や卒業後の職業などは一切考えていませんでした。

 ところが、数学は得意だったものの、物理がどうしてもだめで、東大の理科Ⅰ類への出願を諦めざるを得なくなりました。それで、次の選択肢として医学部が浮上してきたわけです。ただし、偏差値だけで医学部志望に変更したわけではありません。実は、まだ誰にも話したことはなく、今後も決して話すつもりはありませんが、医学部を選択するに当たっては、別に強い動機もあったのです。

 医学部受験に変更したものの、物理が苦手なのは致命的でした。しかも、サラリーマン家庭でしたから、国公立大しか選択肢がありません。そこで、二次試験が英語と数学と小論文だけの金沢大学を第一志望校にしました。奇跡的にも、この前後数年間は二次試験で理科を課していなかったのです。

 受験したのは金沢大学医学部のみでした。また、浪人したら医学部受験は諦めるつもりでいました。ですから、何が何でも医者になるのだという意識は希薄だったかもしれません。しかし、自分のなかにはロールモデルとなる医師が何人もおり、自分が志す医師像はけっこう明確なものがありました。

潰しが効かないからこそ本気で勉強した

ー医学部時代はどんな学生でしたか。

松本 まじめな学生だったと思います。というより、まじめにならざるを得ませんでした。なぜなら、大学卒業後にいろいろな職業や職種を選択できる可能性のある他学部卒に比べて、医学部卒の場合は、国家試験に合格して医師にならなければ、仕事に就くイメージが持てなかったからです。医師国家試験の合格率は90数%とはいえ、合格しなければ、医学部で学んだ知識の多くは無駄になってしまうわけですから、ここまできたら、医者にならなければどうしようもないという気持ちで勉強していました。

 ただ、どこかに「何とかなるだろう」という楽観的な気持ちがあったのも事実です。実際には、当時の国家試験は、現在の国家試験と異なり、国公立大の医学部生であれば、ふつうにきちんと勉強していればほぼ合格できたからです。その点、現在の国家試験は相当レベルが高くなっていますから、どの大学の医学部生であっても大変だと思います。

─専門の診療科はいつごろ決められたのですか。

松本 かなり早い時期から外科医を志望していました。自分の手を動かして何かしないと面白くないと感じる性格でしたから、内科医や眼科医などをしている自分の姿は想像できませんでした。大学卒業後は、金沢大学附属病院に進み、医局は消化器外科を中心とした第二外科を選びました。外科医としてはもう1つ、心臓外科を中心にした外科に進む道もありましたが、非常に優秀な先輩たちが所属していたため、そこに自分が入っていっても、メインで執刀する医師としてやっていくのは難しいと思ったからです。

自分に付加価値をつけるため救急医療の世界へ

ーどのようにキャリアを重ねていったのですか。

松本 第二外科で消化器外科医として8年間修行し、胃がんを専門として多くの手術をこなしてきました。ただ、その後のキャリアを考えると、普通の外科医として生き残るのは大変だろうと思い始めていました。先輩や同僚、後輩の医師たちと、北陸を中心とする地域でポストを争っていくわけですから、何か自分に付加価値をつけなければならないと感じていたのです。

 そこで、救急医療に関する知識や技術を身につけるため、1995年、日本医科大学に1年間の予定で勉強しに行くことにしました。ところが、いざ救急医療の現場に行ってみると、驚きの連続でした。世界には大きな事故などで緊急に止血をして救命救急につなげる外傷外科と呼ばれる分野があり、がんの外科とはまったく異なる治療法があったのです。今まで見たこともないような治療法が目の前で繰り広げられていたのです。その1年間で、すっかり外傷外科に心を奪われてしまいました。

ー金沢大に戻ってからは救急医療に転向したのですか。

松本 外傷外科に魅せられてしまってからは、消化器外科に興味を感じなくなっていました。なぜなら、消化器外科なら大勢の医師がいましたが、外傷外科医はまったくいません。当時の附属病院では、外傷外科が担当するような患者もがんの外科の延長線で治療をしていましたから、それを見る度にはがゆい思いをしていました。

 そのため、第二外科を辞めて救命救急の部署に転ずることにしました。何とか外傷外科を含めた救急医療体制を立ち上げようと奮闘したのですが、地方では、医師の間にも救急医療への認識が不足しており、遅々として進みません。4年間奮闘したのですが、どうしても僕の言っていることが通じません。そこで2000年、金沢大学を退職し、日本医科大学に異動することにしました。

 外傷外科を構築するピースの1つとしてのドクターヘリ

ー自分の思い通りの救急医療体制を構築していくわけですね。

松本 赴任した日本医科大学千葉北総病院では、ドクターヘリを導入する準備をしていました。ドクターヘリは、いち早く医師を現場に送り込んだり、高度な救命救急設備を持つ病院に重症者を素早く搬送できたりする点で、救急医療の拡充に大きな役目を果たします。同時に、早く現場に着けば着くほど、患者の命を救える方法は多くなるので、外傷外科の体系を確立する上でのメリットがあります。僕自身は、外傷外科の発展に興味がありましたが、同時に救命救急にも資するということで、ドクターヘリの運用と事業化にはずいぶん力を注いできました。

ーどんな点にご苦労があったのですか。

松本 まずはドクターヘリがどういうものかを知ってもらうことから始めなければなりませんでした。ドクターヘリは個人が呼ぶものではなく、消防の依頼で出動するものですから、どれだけ有用なのかを救急隊の隊員たちに説いて回り、とにかく出動要請をしてもらうようにしました。その上で、どれだけ救命効果があったのか客観的なデータを示すことで、自治体にも補助金を確実につけてもらう努力もしました。ドクターヘリの事業は税金を投入しない限り継続できないからです。

 日本医科大学に着任してから17年が経ちますが、こうした努力の結果、外傷外科の分野では、誰もが認める日本一の技術と成績を誇るようになっています。現在では、ドクターヘリは救急医療の一領域として確固たる位置を占めるまでに成長しました。今では、そのオペレーションは若い人たちに任せています。

ー今後の抱負をお聞かせください。

松本 現在は救命救急センター長として救急医療を統括する立場ですが、同時に医学部の教授職として学生の教育に責任を負う立場でもあるため、興味の中心は、現場の医療というよりは、病院経営と医学部教育に移っています。単科の私立医科大学の場合は、病院経営は大学経営を大きく左右しますが、経営の効率化と教育の充実の両立には、二律背反的な矛盾もあります。そこで個人的に経営管理学を学び始めました。また、教授職としては、基礎医学と臨床とを融合したような教育のあり方を検討していく必要性を感じています。実践的な医学教育の推進も、今後の大きなテーマになっていくはずです。

医師に求められる覚悟とは何か

ー最後に、医師を目指す人たちにメッセージをお願いします。

松本 医師という仕事は、医学部を目指す受験生の皆さんが、現在、想像しているような素晴らしい仕事ではありません。ヒューマニティに富んだバラ色の職業であるように思っているかもしれませんが、現在の医療は、30年前に僕が医師になった頃とは比べ物にならないくらい煩雑です。ですから、あまり夢を抱かず、相当な覚悟を持った上で、医学部を目指してほしいと思います。

ー人の命に向き合う覚悟ということでしょうか。

松本 人の命に向き合う覚悟は、医師の仕事をしていく中で自然に身についていきます。人類がかつて経験したことのない超高齢社会にある日本では、限られた医療リソースを高齢者に投入する価値があるのかという問題を真剣に考えざるを得ないところまできています。感染症が爆発的に蔓延したときも、同じことが起こります。
 
 しかも、限られた医療リソースをどう配分するかの判断は、最終的には我々医師に委ねられています。もちろん、答えなんてありません。医師を目指す人には、そういう問題に本気で向き合う覚悟があるのかということを問いたいのです。

プロフィール

松本 尚 先生

松本尚さん(まつもと・ひさし)

 1962年石川県生まれ。金沢大学医学部卒業。同附属病院救急部・集中治療部講師などを経て、2000年より日本医科大学千葉北総病院救命救急センターに勤務。2001年よりフライトドクターとして活躍し、日本での第一人者となる。フジテレビのドラマ「コード・ブルー-ドクターヘリ緊急救命-」の医療監修を務めたほか、「プロフェッショナル 仕事の流儀」などのドキュメンタリーなどに多数出演した。2014年日本医科大学救急医学教授。専門は外傷外科、救急医学。

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