医学部受験は情報戦! 医者になりたいキミに「メディカペディア」。

医師の魅力

Doctors' File 〜医師語一会〜

2017.01.23

【大村和弘 先生】「趣味は国際医療協力」。医療でアジアの国々をつなぎたい。

大村和弘 先生

大学病院で週6日の診療を受け持ちながら、年に1度は自費でアジアの国を訪ね、国際協力活動に取り組んでいる医師がいる。東京慈恵会医科大学附属病院で耳鼻咽喉科を担当する大村和弘氏だ。自分のお金と時間を使ってまで、海外の人を救おうという大村氏の情熱はどこから生まれてくるのだろうか。


ラオス・マホソット病院で鼻科手術を指導

ラオス・マホソット病院で鼻科手術を指導

 2014年10月、ラオスの首都ビエンチャンのマホソット病院。その耳鼻咽喉科手術室では、内視鏡による副鼻腔手術が行われていた。手術を指導しているのは一人の日本人医師、大村和弘氏だ。普段は東京慈恵会医科大学附属病院の耳鼻咽喉科の専門医だが、毎年この病院を訪れ、ラオス人医師たちに技術指導を行っている。

 「2012年にこの国の実情を知って、日本大使館に寄付を呼びかけ、翌年に耳鼻科用内視鏡を導入してもらいました。機器の使い方は、私が現地で実際に手術をしながら、現場の医師たちに教えています」
 電力事情が厳しいラオスでは手術中、停電に見舞われることもしばしば。が、それでも大村氏は懐中電灯の光で淡々と手術を続行する。ミャンマー、ネパールなどで長く国際医療協力活動を行ってきただけに、現場対応力には絶対の自信を持っているようだ。

ラオス・マホソット病院での技術指導の様子(中央が大村氏)。実際の活動の様子についてはユーチューブで視聴できます

終末期医療に興味を抱き医師になりたい気持ちが芽生える

 開業医の父と薬剤師の母を持つ大村氏が、「医者になろう」と初めて意識したのは高校1年のとき。中高一貫校の課外活動で、終末期医療の講演を聞いたのがきっかけだった。
 「もともと医者は身近な職業でしたが、当時はまだ緩和ケアが一般的ではなく、患者さん本位の終末期医療が確立されていなかった。そこで、自分が医者になって現状を変えてやろうと、本気で考えたのです」

 思い立ったらすぐに行動するのが大村流だ。早速、医学部受験のための予備校に通い始める。自分で選んだ道だけに、受験勉強は少しも苦にならなかった。それどころか、部活の陸上部と趣味のバンド活動も並立させていたというから、もともと人生を貪欲に楽しむタイプなのだろう。
 「高校時代は医学部に合格することではなく、入学したら何をするかを考えていました。受験勉強のモチベーションが落ちないよう、予備校に遊びに来る医学生とも積極的に話すようにしていました」
 ブレない行動力と将来を見通す先見性。大村氏の個性はすでにこの頃から形作られていたようだ。

運命を変えた吉岡秀人医師との出会い

 第一志望の慈恵医大に入学してからも、大村氏の毎日を楽しむ姿勢は変わらない。ラグビー部副キャプテン、相撲部主将、文化祭実行委員長を掛け持ちし、リーグ優勝など、それぞれで輝かしい実績を残している。
 だが、医学生としては自分の専門を決めかねていた。終末期医療に興味を抱いて医師を志したものの、緩和ケアはすでに珍しいものではなくなっていたこともあり、医療を「改革」するというかつての強い思いを失いつつあったという。

 決定的だったのは大学卒業後、英国と米国の病院に短期留学して、本場の終末期医療を体験したこと。そこでは患者ケアが完全に分業化しており、「患者さんと1対1で向き合う医療」という自身の理想とかけ離れていたのだ。終末期医療は自分の目指すフィールドではないかも……。そう考え始めた矢先、運命的な出会いを果たす。

 「救急救命医時代、予備校の恩師に勧められた吉岡秀人先生の講演にガツンと衝撃を受けました。吉岡先生は国際医療ボランティアのNPO法人JAPAN HEART代表で、アジアの途上国で自炊しながら、医療活動を何年も続けている方。『やりたいことに正直に生きよう!』という熱いメッセージに共感し、この人と一緒に働きたいと思った。僕のいまの活動はすべて吉岡先生から始まっています」
 直ちに吉岡氏に連絡を取ると、「ミャンマーに来てくれ」とのこと。こうして大村氏は、現在の“趣味”でありライフワークでもある「国際医療協力」活動をスタートさせる。2007年のことである。

医療は中立の立場で人と人、国と国をつなぐ

大村氏が代表を務めるNGO。緑の輪は活動歴のある国、赤の輪は現在活動中の国を示す 大村氏が代表を務めるNGO。緑の輪は活動歴のある国、赤の輪は現在活動中の国を示す

 大村氏はそれまで、アジアの途上国を訪ねたことがなかった。汚い屋台も大嫌い。だが、救急救命医としてミャンマーの人々を治療、彼らと接し、感謝されるうちに、ある重大な事実に気づく。医療はあくまで中立の立場で、人種や主義主張に関係なく、人と人、国と国をつなぐ存在になり得るのだ、と。
 「昨日まで日本という国すら知らなかったミャンマー人が、僕の治療を受けて、子どもに日本風の名前を付けると言ってくれた。今後、彼は『日本』と聞くと、まず僕の顔を思い出してくれるはず。そんなふうに医療はミャンマー人と日本人の良い関係を築いてくれる。これこそが医療の力であり、この力を社会に伝えていくことが僕の使命だと感じました」

 さらに、耳鼻咽喉科を自分の専門にしようとも決めた。この領域には圧倒的な専門性があるからだ。また、国際医療協力を一生続けていくには、先達と重複しない専門を持つほうがいい。これも先を見通した決断といえるだろう。
 「ただし、僕の国際医療協力は、吉岡先生とは別のアプローチを取ることになります。吉岡先生は途上国の患者さんを直接救う活動をしていますが、僕は途上国の医師への技術指導を通して患者さんを救いたいと考えたのです。そのために立ち上げたのがUnite ASIA with Medicine and PeopleというNGOです」

 医師は一般的に自分の知見や技術の向上を実感することで、日々のモチベーションを高めていく。そのためには、高い受講料を払ってでも医療先進国のセミナーを受けることも必要だ。しかし、途上国ではセミナーを受ける財力のない医師も少なくない。日々劣悪な医療機器で不十分な医療しか提供できないでいる。裕福な医師は留学することもできるが、そんな彼らは生活水準の低い母国に戻ろうとせず、米国などの先進国で暮らし続ける。これでは途上国の医療は空洞化するばかり。そんな事態に歯止めをかけようというのが大村氏の試みであり、冒頭のラオスでの技術指導はこの活動の一環だったのである。

医師に求められる資質は何より人が好きであること

これが通勤のスタイル。このまま東南アジアに飛べそう これが通勤のスタイル。このまま東南アジアに飛べそう

 いま、大村氏は今後の国際医療協力について次の3つの方向性で進めたいという。
 1つ目はアジア途上国の医師への技術指導をいままでどおり行うだけでなく、各国の医師に数カ月間日本に滞在してもらい、慈恵医大の手術研修などを集中的に受けてもらうこと。
 次はインターネットによる外国人向け遠隔医療で、日本全国から母国語で受診できるシステムを構築すること。
 そして3つ目はグローバル感覚を持った医師を育てること。大村氏はすでに日本と韓国で講義・実習を行い、日韓の医学生が交流できる場をつくっている。

 「海外の現状を知るために長期留学することは、医学生にとって現実的ではありません。でも、毎年定期的に外国人と接していけば、本人の中で“点”でしかなかった外国体験が、やがては“線”になる。そんな人材が増えていけば、今度は国同士が“面”でつながるでしょう。医療は国と国をつなぐ架け橋になり得るのです」
 最後に、医師に必要な資質について尋ねた。

 「最も重要なのは人間が好きであること。そうでない人は病理医や放射線科医を目指せばいい、という考え方もありますが、それは違う。病理医や放射線科医でも、医師である以上、自分の仕事の向こう側にいる人たちのことを常に考えないといけないのです。医師という職業は人の命や生活を左右するし、人に喜びも与えられる。だから毎日わくわくするし、やりがいもある。責任は重いけれど、こんなに楽しい仕事はあまりないでしょう」
 まず、人が好きであること。大村氏の原点は驚くほどシンプルかつ明快だった。将来を的確に見据え、ブレずに行動できる秘密もこのあたりにあるのかもしれない。

大学病院勤務の傍ら、 自費でNGO活動に取り組む「行動する」医師。

大村和弘 先生インタビュー

 1979年12月、東京生まれ。東京慈恵会医科大学卒業後、イギリス・セントトーマス病院での短期臨床留学を経て、UCLAの短期臨床実習を修了。タイ・マヒドン大学に在学中、ミャンマーを襲ったサイクロン被災民への支援を行う。2006~2008年、NPO法人JAPAN HEARTを通じて、ミャンマーとカンボジアで現地の文化やシステムを生かした医療支援を行いながら、JICA短期専門家として医療スタッフ育成に従事する。現在は鼻科手術の技術などを国内外の医師に教育する傍ら、遠隔コミュニケーション・システムを利用した医療や、代々木メディカル進学舎(YMS)で日本と韓国の医学生教育に携わり、アジア諸国とのより良い関係構築に貢献している。

他のインタビューを読む

キーワードタグ

関連記事

新着記事

一覧を見る

toTOP